はじめに

 江戸から明治中期にかけて、我が家、江崎家は、九州は福岡の柳川という城下町で紺屋を営んでいた。当時の資料は、藍瓶として使用していたと思われる瓶や染料用の棒秤など以外、台帳などの文書類は何も残っておらず、どのように商売をしていたのかは全く不明であり、紺屋を生業としていたことを文書によって確証することは出来ない。あくまで先祖からの口伝を主たる根拠としている。しかし、紺屋の最後の代の遺品や、型紙上の墨書の内容等を考え合わせると、家業が紺屋であったことはほぼ間違いないと考える。その我が家に染色用の型紙が約1200枚、蔵の中に保管されていた。これはその調査記録である。私は染色および民俗学の専門家ではないので、認識の間違いも多分にあると思う。なにか御指摘の点があれば、お知らせいただければ幸いである。

柳川の歴史

 柳川は、郊外の蒲池地区に約2千数百年前の弥生式土器が出土しており、この頃から稲作が行われていたと考えられる。平安時代には太宰府府官の橘氏、そして中世から戦国時代にかけては融流嵯峨源氏の流を汲む蒲池氏が領主であった。蒲池氏はもともと、平家が支配していた鳥羽院領肥前国神埼荘に荘官として下向していたが、壇ノ浦の戦いで源氏方に与した功により鎮西御家人となり、筑後国三潴郡の地頭職に任ぜられた。その後、守護として赴任してきた東国御家人の大友氏の傘下に置かれる。16世紀には蒲池氏の本城である蒲池城の支城として柳河城が築かれ、後にこの城を本城とした。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた総構えの平城で、九州屈指の難攻不落の城とされる。都市としての柳川は蒲池氏によるこの柳河城の築城に始まる。戦国後期に入ると、大友氏、島津氏、龍造寺氏が、九州制圧の要害である筑後国で戦いを繰り広げ、蒲池氏は滅亡、そして豊臣秀吉による九州平定後は大友氏の流を汲む立花宗茂が十三万二千石の領主として治めていた。しかし、関ヶ原の合戦において西軍についた立花宗茂は改易され、合戦の戦功により徳川家康から筑後一国三十二万五千石を与えられた三河国岡崎十万石の田中吉政が、柳河城を本城と定め統治を始める(1601年)。田中吉政は、掘割を整備することにより水運と稲作用水を確保し、交通網(久留米柳川往還、柳川と八女福島・黒木を結ぶ街道)の整備、有明海の干拓堤防の築堤(慶長本土居)および干拓地の造成、矢部川の治水、荒地開墾など、近世における柳川の基盤整備を積極的に行った。その後、田中家は後嗣がなく改易され、筑後国は大きく二分される。筑後中部・北部は丹波国福知山八万石の有馬豊氏が二十一万石を与えられ、もともと柳川の支城であった久留米城を本城として統治を始めた。一方、筑後南部は、関ヶ原の合戦後しばらく浪人し、その後幕府に召され、最終的に陸奥棚倉三万五千石の大名となっていた立花宗茂が、幕府によって十万九千石を与えられ、再び柳河城に入った(1620年)。以後、改易や国替も行われず、立花氏を藩主としたまま明治維新を迎え、現代に至っている。

江崎家の沿革

 紺屋を営んでいた土地は、柳川市の昭代地区、古賀という集落である。水郷、そして北原白秋の生地として知られてきた農業、漁業と観光の町である柳川は、水郷の名のごとく町の至る所に堀割が切ってある。一昔前よりかなり綺麗になったとはいえ、澄んでいるとは言い難い堀だが、今でも堀岸の家のなかには、洗い物などの生活用水として利用している所もある。私の祖父や曾祖父の時代は今よりもかなり綺麗だったらしく、雨樋からの天水を瓶にためて飲料水にし、洗い物などには堀の水を使い、夏場になると子供たちは堀や川でよく泳いだそうである。
 紺屋を家業として営んでいたのは曾祖父、江崎潮太郎(明治12年生、昭和45年没)の父親である江崎乙松(弘化2年生、明治31年没)の代までである。我が家には正確な家系図が伝わっておらず、檀那寺である福法寺が江戸時代に一度焼失していることもあり、いつから紺屋を家業とするようになったのかはわからないが、型紙の入っていた木箱の裏に「嘉永」の年号が書かれているので、遅くとも江戸末期であることは確かである。乙松は絵を得意としていたらしく、絵具皿、筆、顔料絵具、道具箱、小型の棒秤、それに習作が数点残っている。また型紙の中には、自分で彫ったと思われる伏型や紋紙などもある。乙松の父、忠吉は大工であり、忠吉の長男、元吉も父親と同じく大工を生業としていた。忠吉の両親、兄弟姉妹については全く記録も口伝もなく、次男である乙松が紺屋を生業とするようになった経緯はわからない。元吉は細工物を得意とする宮大工だったようで、村の鎮守である日子山神社の造営のときには棟梁を務めている。また東本願寺の明治大改修のときには京都まで出向き、工事に携わっている。妻と死別した後は弟である乙松の家、つまり我が家で暮らしていたらしい。生活に困窮することはなかったので、晩年はまるで趣味ででもあるかのように、手間賃ももらわずに人の家の仏壇ばかりを作ってあげていたという。そして最後になってようやく、世話になっている弟の家、つまり我が家の仏壇を作ってくれたということである。身体が弱かった乙松は52歳でなくなっているが、その息子である潮太郎も幼少期は病弱だったらしく、乙松はこのまま紺屋を継がせるのは無理だと考えたのだろうか、縁のある川向こうの沖ノ端の呉服屋に潮太郎を丁稚奉公に出している。紺屋として資金が潤沢なうちに方向転換したからであろうか、潮太郎は第二次世界大戦まで呉服屋と質屋を同時に営み、村内と朝鮮半島に田畑も所有していた。父から聞いた話では、景気が良ければ呉服屋で稼ぎ、景気が悪ければ質屋でしのぎ、どちらもだめなら田畑でという考えだったようである。戦争が終わり、農地改革で田畑が無くなってからは、家族経営の小さな衣料雑貨品店として父の代まで続けてきた。曾祖父の潮太郎は自分自身では還暦を超えることは出来ないだろうと思っていたらしいが、91歳まで生きた。私が幼少のころ、曾祖父が長火鉢で煙管を吸っていたのをよく憶えている。
 江戸時代から明治中期にいたるまで、どのような形態で紺屋を営んでいたのかは、文書が全く残っておらずわからない。我が家の場所は沖ノ端川の岸(土居の上)にあり、川向こうが立花藩の城下である。よって我が家は正確には城下ではなく郡部の始まりの場所にあったことになる。もともと三明橋のたもとにあったのだが、昭和初期の河川改修工事のため立ち退きを余儀なくされ現在の場所に移っている。現在の三明橋ができる以前は開閉式の橋であり、さらにそれ以前は渡し船での往来(孫六渡)であった。藩政時代の沖ノ端には御船木屋があり、ここは藩の重要な港の一つであった。また、筑後地域は佐賀南部と共に広い平野をかかえており、さらに干拓事業による耕作地の拡大もあり、近世においては全国有数の穀倉地帯であった。温暖な気候に加え筑後川流域の土地は肥えており、農村といえども比較的豊かであったようだ。現代にいたるまでこの地域が伝統的に手工業が盛んであることも、農業生産による民衆の経済力に負うところが大きいであろう。柳川藩からは米・麦などの穀物だけではなく、酒・木蝋・瓦・和紙・傘・菜種油・茶などが藩の特産品として海路運ばれた。現在の柳川の港は小型の漁船のみの漁業基地としての機能だけであるが、私の大叔母の話では、川幅が広かった昔は朝鮮近海で漁をする船や交易船のような帆船も出入りしていたらしい。対岸の沖ノ端には以前は網元や廻船問屋があり、かなりの賑わいだったそうである。曾祖母はそのうちの一軒から我が家に嫁にきたということだ。時化などで船が沈没したりすると、その廻船問屋の前に人だかりが出来ていたのを憶えていると大叔母は語っていた。また柳川の北に位置する鳥栖は、長崎街道と薩摩街道の交差する所で、今も交通の要衝である。戦国大名が筑後国を得るために戦乱に明け暮れたことでもわかるように、ここは地政学的に重要な土地である。人や物の往来は今と変わらず昔も多かったであろう。紺屋を営んでいく上で、これらの条件は有効に働いたと思われる。

型紙

 型紙の種類による分類と全体(1200枚)に占める割合は次の通りである。なお複数型は小紋中形と中形に存在しているので、数値内容はある程度重複する。

小紋 小紋中形 中形 中形(一枚) 複数型(追掛)
枚数 57 428 420 80 97 90 28 395(150組)
割合(%) 4.8 35.7 35.0 6.7 8.1 7.5 2.3 32.9

 その他の特徴による分類と全体(1200枚)に占める割合は次の通りである。この場合もそれぞれの特徴は互いに重複することがある。

 

複数型(追掛)

うるみ
(鳴海紺型)
蒲彫 糸入 糸掛 反古紙
2枚型 3枚型 4枚型 合計
枚数 166(83組) 117(39組) 112(28組) 395(150組) 141(47組) 12 188 5 297
割合(%) 13.8 9.8 9.3 32.9 11.8 1.0 15.7 0.4 24.8

 文様は、多岐にわたり非常にバラエティに富んでいる。一般的な送りを用いた小紋、中形だけではなく、手拭いや風呂敷に用いるような一枚物の柄や、縞、絣、絞り、更紗まで存在する。
 彫り方は、文様によって変わってくるが、錐彫、突彫、道具彫、引彫すべてを使ってある。また錐彫においては、彫カスを抜き忘れてある箇所がいくつかあった。
 糸入れのものも多く、糸掛けも数枚ある一方、紗張りは一枚も無い。
 地紙の接合方法は、ほとんどの型紙において、水切りと包丁切りが混在しているように思われる。ほとんどの場合、型紙の表面裏面それぞれに複数枚の地紙を継ぎ合わせてある。その枚数、継ぎ合わせ方は様々で、一定の法則性のようなものはあまり感じられない。
 複数型(追掛)は2枚、3枚、4枚のものがあり、伏型を使ったものも数枚ある。一つの文様を染め上げるための複数型の彫り分け方にはいくつかのパターンがあり、染め上がりの絵柄に応じ単独もしくは複数のパターンを混合して彫り上げている。また、複数型(追掛)の中には左右上部に切り抜きや切り込みを施し、一組であることをわかりやすくしているものもある。
 絵柄の表現方法は、点描、絣、縞、蒲彫、絞りなど多岐にわたっている。
 また反古紙がかなり使われており、その内容は、宗門人別帳、土地関係の文書、キリスト教禁令関係の文書、版本などがある。透過スキャンを用いることによって、その内容はかなり明確に読み取ることが出来る。
 我が家は昭和初期の河川改修工事のため土居の下(現在の三明橋の橋脚あたり)から現在の場所に移転し、そのとき蔵のみをそのまま引き直してもらっている。その漆喰の土蔵の二階の奥に型紙はしまわれていた。一部は虫に喰われ、籾殻や埃にまみれていたが、比較的損傷は少なく、型紙自体は非常にしっかりしている。しかし糸入れがしてあるもの、特に縞などは、保管のため白い和紙を型紙と型紙の間にはさんであるものが多かったが、すでに糸が切れている場合も多く、手で持ち上げた途端一気に糸が切れたものもあった。糸が切れたり紙が破れたりした部分を綿糸で丁寧に修繕、補強しているものもあり、道具として大切に使っていたことが伺える。さすがに150年の時の長さを感じるが、地紙自体はびくともしておらず、非常に強靱で、和紙と柿渋の力には感服する。型紙は自家製の木箱(下駄の歯のような握り手の付いた蓋を伴った、ちょうど押し寿司を作る箱のようなもの)に100枚前後ずつ入っていて、それが11段重ねになっていた。漆喰の土蔵という、適度な通気性があり、年間を通して気温の変化が少なく、日の光が届かない場所に、上下に圧縮して保管してあったことが、良好な保存状態を生み出したのであろう。過去には村内全てが水没するような水害(昭和28年西日本水害)にも見舞われ、毎年のように台風の直撃を喰らっているような風水害の絶えないこの土地で、戦争による空襲を免れたとはいえ、よく今まで持ちこたえたものである。

さて・・・・

 本来は布を染めるための道具である染色用型紙を、このような形で整理し公開することに意味があるのか。しかも我が家は100年以上前に紺屋をやめており、私自身「染」とは無縁であり現在もそうである。このようなことは染屋か型彫り師、もしくは民俗資料館のような所に任せた方が良いのではないか。いったいどうしたものか、1200枚の型紙を目の前にして頭を抱えてしまった。
 考えあぐねながら、家の縁側で型紙を陽光にかざしてみた。彫り抜いた部分がキラキラと輝き、そこから光りの粒がこぼれ落ちてくる。たおやかな線、陰陽のコントラスト、緻密でおおらかな文様、斬新な発想。そしてこれを作り上げた職人の気の遠くなるような技。あまりの美しさに絶句してしまった。この型紙を使って先祖は布を染めていたのである。この型紙は自分と血がつながっている。そこにいとおしさを感じたことが、自分自身で整理をつける動機になったのだと思う。
 型紙の文様は素晴らしい。そしてそれを表現する方法、発想には目を見張るものがある。しかしそれだけではない。型紙の文様世界にはそれを使って染められていた土地の歴史的文化的背景が埋め込まれている。土地の好みであり時代の好みである。しかし、一軒の紺屋のまとまった型紙であってもばらばらになってしまえば、個別の文様は残っても背景が抜け落ちてしまうことになる。もしそれが複数型(追掛)であれば、どのような文様が染め上がるのかさえわからなくなってしまう。我が家の型紙の中にも相方とはぐれてしまったものがいくつもあると思われる。悲しいことである。データを取り、記録として残し、整理し、散逸させることなく後世に残すことが不可欠である。
 これを使って布を染めるのであるから、型紙が染色のための道具であることは当然であるし、第一にはそう扱うことが本筋であろう。しかし道具にしか過ぎないわけではないはずである。日本の染色用型紙は欧米の美術館において美術工芸品並の扱いをされているとも聞く。本来は消耗品である道具を美術工芸品と位置づけるのもいかがなものかと思うが、染色という本来の使われ方とは違った視点で見つめることも大切ではなかろうか。新たな切り口は新たな展開を見せてくれるであろう。
 「染」を取り巻く一連の手仕事はかなり厳しい状況にあるという。型彫りの世界も同様のようである。そして型紙の研究はあまりなされていないと聞く。型紙そのものもあまり出てきておらず、特に西日本は圧倒的に少ないとのことである。戦火や災害、海外への流出を免れ、どこかの蔵の中に眠っている型紙もまだまだあるのではないだろうか。幸いにして我が家の蔵に眠っていた型紙は、150年の時を経て世に出る機会に恵まれた。これを作りあげた型紙職人、そして紺屋であった私の先祖も少しは喜んでくれているのではないかと思う。
 このホームページが多くの人の目に止まり、目を愉しませ、活用されることを願っている。

謝辞

 この整理作業を行うにあたり、様々な方の助言を頂きました。厚く御礼を申し上げます。

2003年秋(2010年修正加筆)